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Scene1・父との思い出

私の幼少時、父に関しては忙しく働いている印象しかありません。働く場所と自宅が一緒なため、父も母も必ずそばにはいるんです。しかし両親は常に働いていますから、なかなかかまってもらえない。家族でどこかへ遊びに出かけた記憶がないほど忙しいのに、かといって裕福でもなかった。今にして思うと、父は、兄弟7人を面倒を見、家計を支える立場で非常に苦労していたはずなんです。でも、当時の私は子供ですから、そういうことを理解できず「遊びに連れて行ってもらえないから、つまらないなあ」と感じていたぐらい。ただ、口数は少なく働き者の厳格な父でしたので、幼い頃から、実は尊敬もしていました。

 

私が家業を継ぐことを決めた時、父は「だったらそのまま家業へ入るのではなく、一度修業に出て、よそ様の釜の飯を食べる経験をしてきなさい」と道をつくってくれました。父が主導で経営していた時は、全く人の話に耳を貸さない人でしたが、修業に出て約3年半後、私が手彫りの技術を携え帰ってきた頃には、だいぶ柔軟な考え方に変化していたように思います。私の「店をああしたい、こう展開していきたい。いつまでも個人経営の商店のままではダメだ」という生意気な考え方を受け入れ、法人化も許してくれた。当時の私の考え方なんて、ただ格好つけていただけ。でも父はそれらを全て理解していながら「お前のやりたいようにやればいいよ」と言ってくれました。「いつまでも自分が口を出していたら後継者が育たない」という感覚だったんだと思います。

 

スタンプナメカワの法人化も果たし、店の財布、つまりは経営の責任もバトンタッチしてもらえたのが24、5歳のこと。現在、大勢の経営者との付き合うようになって感じさせられるのは、未だに父親の代が実権を握り、私と同世代の人間が遠慮しているのを見るにつけ、代替わりした際の父の潔さは凄かったのだということです。

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2代目として祖父から印章店を継ぎ
常陸太田市から日立市へ(50年前)。

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初めて買った商用車と店(作業場)。
それまでは自転車(バイク)で工場納品をしていました。

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父のハンコを彫る姿。子供のころ見ていた父の背中です。

 

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2005年、近年の父。

実権を受け継いでからの私は、チラシやダイレクトメールを活用、いち早く機械化も導入し、束の間の成功も収めました。お客様も収入も増えましたが、成功し続ける仕組みをつくる引き出しも知識も、当時の私にはない。スタッフもかなり増員したけれど、結局、雑用ができる人間を増やしただけ。肝心な作業は、私と父がするしかなかったんです。徹夜続きのせいで、私は胃に穴が空き、父は過労で倒れ、計2回の救急車騒ぎも招いてしまった。父は昔気質の職人として、ずっとコツコツ仕事をしてきた人間。内心「こんなやり方じゃ後に繋がるはずがない。それ見たことか」と思ったはず。でも決して、その言葉を口にすることはなかった。私のやりたいようにやらせてくれ、仕事が増えれば体を壊すまで付き合ってもくれたんです。

 

外部から資本や経営のノウハウを持った人間たちが、この業界に参入してくると、途端に上り調子なはずのスタンプナメカワは、一転、淘汰される側に追いやられてしまいました。振り返ると、手彫りという原点に戻るための、良い節目だったのだと考えます。失敗の経験も、手彫りの修業も、全てが大事なポイントで背中を押し続けてくれた父でした。現在のスタンプナメカワがあり、今の考え方を持った私がいるのは、やはり父がいてくれたからこそ。必死に自分の力で突っ走ってきたつもりでしたが、父親の手のひらの上で勉強させてもらっていたんだと思います。

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